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食の人 vol.7
沖縄食堂じまんや 山城和也さん
「沖縄で好きな場所は知念あたりの海やニライカナイ橋。それにやんばるの大石林山が好きです。虫や生き物がたくさんいるので」
そう話すのは、那覇市牧志にある「沖縄食堂じまんや」の店長、山城和也さん。「山城」という名前だがウチナンチュではなく、千葉県千葉市出身。
観光客がたくさん訪れる国際通りにほど近い場所で、大人気の居酒屋「沖縄食堂じまんや」をオーナーと共に立ち上げ、料理長を経て、現在は店長として店を切り盛りしている。来店した観光客は皆、じまんやの沖縄料理に舌鼓を打ち、満足して帰って行く。リピーターも多い。泡盛の種類も豊富で、山城さんも泡盛マイスターの資格を持つ。
「料理人になったのは、モテたかったからなんです」
子供のように無邪気な笑顔で話す彼は、料理人にならずともモテたに違いないくらい、イケメンだ。
小さな頃は団地に住んでいた。山城少年は虫が大好きだったが、あたり一帯が団地なので自然が少なく、とにかく虫はいない。森や木もないためカブトムシなどいるはずもない。
「それでもなぜかカマキリだけ存在していて。なので毎日毎日カマキリを探し回っていました。どれくらいだろ?幼稚園から小学校6年生くらいまで、毎日カマキリを探してました」
兄弟は妹が一人。幼稚園の頃の夢は警察官になりたいと、何かに書いた記憶があるらしい。理由はパトカーに乗りたかったから。子供らしい夢だ。
「でも思い返すと別に警察官にはなりたくなかったんです。実際のところは夢なんてなかった。子供の頃から夢がなく、そのまま大きくなっちゃったもんで、高校三年の時、進路を決めるのにとても苦労しました。だって夢がないから」
小学校6年の卒業文集には、ゲームのキャラクターデザインを描きたいとかいていたそうだ。小学生ながらその夢は、ちょっぴり本気で考えていた。絵を描くのが大好きだったからだ。
「幼稚園の頃は園内で一番絵がうまかったんです。その上、足も速かったので園のヒーローでした。子供ながらに今でいう忖度もできたし、周りの大人たちからは神童と呼ばれていましたね。幼稚園の頃は絵が上手で足が速いだけで神童になれたんです。その頃は自分でも、同級生と比べて優れていると、小さいながらに思っていたし。でも今考えると可愛げがないですよね(笑)」
ところが小学校に上がると、自分より足が速い子もたくさんいるし、自分より絵が上手な人がたくさんいるという現実を味わう。
「なーんだ。俺は一番じゃないんだ、と初めての挫折を味わいました。しかもその挫折はタチが悪く、すぐに諦めに変わったんです」
悔しさをバネにして「もっと絵を練習してうまくなってやる!」などとは考えなかった。心の中では諦めていた。そこから歳を重ねるごとに「諦め度」はどんどんエスカレートしていき、自分がやりたい事があっても心に蓋をして、学生時代を過ごしたという。
高校の時に初めてバイトをしたのはデパートのフードコート。なぜ飲食店を選んだのか?
「そこには母親の影響があると思います。母はご飯をちゃんと作ってくれる人だったから。例えば母親が寝坊しても、ご飯だけはちゃんと作る。お弁当も毎日作ってくれる。とにかく食事を大事に考える人だったんです」
でも最初は「モテたかったから料理人になった」と言っていた山城さん。
「実は僕と妹が小さい頃、母はよく体調を崩していたんです。僕も妹もご飯が作れず、父は朝早くから夜遅くまで働いていて、休みも取れないほどでした。なので小さい頃は父と遊んだ記憶もないんです。でもそんな忙しい人なんだけど、母が体調を崩した時は仕事を切り上げ家に帰って来てくれて、ご飯を作ってくれました」
父親が作る手料理は凝ったものではなく、ふりかけおにぎりとか、ソーセージを焼いただけのもの。
「でもそんな父がとても嬉しかった。人にご飯を作ってもらえることの喜びを子供ながらに感じました。お父さんカッコいいな~って」
現在、山城さんは35歳。そんな幼い頃の記憶など薄れ、とにかくモテたい一心で料理人を目指す。まったくモテなかったワケではないが、料理人になり料理の腕は上がっても、好きな人にはなかなか振り向いてもらえなかった。
「なんで俺は料理人がモテると思ったんだろう?と考えた時に、ふと父の事を思い出しました。カッコいい=料理が作れる人というのが、さっき話した幼い頃の父の姿に繫がったんです」
高校時代は飲食店でバイトをしていた。そして高校を卒業し、調理師学校に通う。調理師学校に通いながらバイトをし、調理師学校を卒業と同時にバイトを辞め、学校が勧めた銀座のイタリアンレストランに就職した。
「イタリアンに特に思い入れはありませんでした。料理にも高度な技術を求められたし。基本、優等生気質なのでまじめに仕事をこなし、3年経った頃にはすべてのメニューが作れるようになりました」
その頃、新入社員でとびきり可愛い女の子が入社。山城さんはその女の子と恋に落ち、しばらく付き合ったものの、残念ながらフラれる。
「彼女からフラれた事をきっかけに、イタリアンレストランを辞めました(笑)なにしろ若かったですからね。でもどうしても彼女を見返したくて、そうだ!カメラマンになろうと思ったんです。そこから2年間、カメラの専門学校に通いました」
いやいやいや。なぜ急にカメラマンに?展開がおかしくなってきたが続きを聞こう。
「昔から写真を撮ることが好きで。生活費と学費を稼ぎながら、とにかく二年は頑張りました。卒業してからも、カメラマンのアシスタントになるために努力はしましたが、結局無理でした」
生活を立て直すために定食屋で社員になり、そこで「沖縄食堂じまんや」のオーナーである横井氏と出会う。
「聖ちゃん(横井氏)は定食屋を辞め、銀座にあった「じまんや」という居酒屋で働いていて。その頃から聖ちゃんは、俺は将来、飲食店をやるから一緒に働こう!と誘われていましたが、それもいいかな~とぼんやりかんがえてました」
じまんやの2号店を銀座にオープンしようとした矢先、東日本大震災が起こる。銀座にも人がいなくなり、じまんやの2号店の銀座でのオープンもお流れになり、横井氏からの連絡も途絶えた。
「長い間、聖ちゃんからの連絡はありませんでした。その時に僕はまだ定食屋で働いていたんですが、その頃、定食屋の社長が中国に支店を出すという話を耳にしたんです」
その頃、山城さんは自分の中にモヤモヤしたものを抱えていた。
「料理人はもう絶対やらないと誓い、カメラマンを目指したのに、カメラマンもうまくいかず、また料理人に戻った自分が情けなくて。生まれてから27年間なんにも成功したことがないし、達成感もない。そんな中途半端な人生を大きく変えたくて。社長にお願いし、中国の支店で働かせてもらおうと思ったんです。」
山城さんは翌日、定食屋の社長に直談判しようと考え、どうすれば社長に中国行きを認めてもらえるかを、必死に考えます。実はその定食屋は大型チェーンの定食屋で、現在も日本国内のみならず、海外にも支店が多くある定食屋です。
「社長を説得するためにはどうしたらいいかを考えていたら、聖司さんから電話がかかってきました。『じまんや2号店は沖縄でのオープンが決まったから来ない?』と電話があったんです。このタイミングで?!って思いました(笑)俺は明日、定食屋の社長に中国行きをお願いしに行くところだったのに、このタイミングか~って。縁なんですねきっと。聖ちゃんからの電話が翌日だったら、きっと沖縄行きを断ってたと思います」
そして山城さんは沖縄行きを決意する。
そして今から8年前に沖縄へ移住。初めて沖縄に来るときは、ちょうど台風で沖縄に来れず、予定より3日遅れで沖縄へ。初めて訪れた沖縄は、台風後の荒れた沖縄だった。
家は横井氏が探していてくれてたので、しばらくはその家に一緒に住んだ。職場まで歩いて行ける事が嬉しく、夜遅くまで終電を気にせず思う存分働けると思った。それに中国に行くことを思えば何でもできると思ったそうだ。
「今までは組織の中で、レシピの決まっているものを作っていたので、美味しいと言われてもあまりピンとこなかったんです。でも今は全部自分で考え、自分で作っているので、美味しいと言われるとヨッシャー!って感じです」
数年前に沖縄で素敵な女性と巡り会う。そして2年前にめでたくゴールイン。昨年11月には可愛らしい男の子も誕生した。
「沖縄には虫やヤモリや生き物がたくさんいて、本当に素晴らしいと思います。僕は子供の頃、父と遊んだ記憶がないので、自分の子供とはたくさん遊びたいし触れ合いたいと思っています。まだ赤ちゃんなので大きくなるのが待ち遠しくて」
最後にこれから沖縄移住をされる方、夢見ている方にアドバイスを。
「自分の信念をしっかり持っていれば、どこだって生活できると思うし、後はどうとでもなる!と、昔の自分にも言いたいです。僕は信念がなかったから本当に辛かったし、ココにたどり着くまでに時間がかかり過ぎました(笑)」
回り道はしたけれど、それはきっとすべて必然。料理人になり沖縄に来て、素敵な奥様と結婚出来た事で、料理人=モテるの方程式は成立したんだと思う。
※現在の『沖縄食堂じまんや』は、銀座のじまんやとは独立し、横井氏の店となっている。
沖縄食堂じまんや
098-943-2081