物語を知ることで、味わい方がちょっと変わってくる。食べたり、飲んだりするときに、ちょっと知識があるだけで、おいしさに深みを増すような。沖縄の食べもの、飲みものって名前として知られているものは多いが、その物語のほうは意外と知られてないものが多い。
たとえば、なぜ泡盛は「泡盛」と呼ぶのか。
これには、いくつか説がある。一つ目は、泡盛をグラスに注ぐときに泡立つためという「泡説」。二つ目は、現在ほとんどが泡盛づくりにタイ米を使っているが、かつては”粟”でも造れられていたためという「原料説」。三つめは、薩摩藩が九州の焼酎との区別のために名付けたという「薩摩説」。最後は、梵語(サンスクリット語)でお酒を意味するアワムリという言葉から転じた「梵語説」だ。
そう、泡盛自体だけでも、さまざまな話がある。だが、さらに泡盛をつくる酒造について知ると、泡盛が持つキャラを楽しむことができる。沖縄で泡盛造りをするのは、45蔵と1組合と、すべてで46ヵ所ある。
十人十色という諺があるが、46人の人がいると考えれば、そこに個性があるのは当然といえば当然だろう。さて、今回は、最古の泡盛があることでよく知られる「識名酒造」について触れてみたい。
不幸中の幸いで守られた150年古酒?
昔の沖縄には、100年や200年熟成した古酒があったが、第二次世界大戦の戦禍によりそのほとんどが失われてしまった。現在、沖縄で公表されている最も古い泡盛は、識名酒造の約150年ものだと言われる。また戦前の首里には約70もの泡盛工場があったそうだ。そのなかで、なぜ識名酒造の古酒だけが残ったのだろう。
それは、古酒をいれた南蛮甕(かめ)が地中深くで守られていたから。
識名酒造の先々代が、首里に戦火が及びそうになったとき、家にある古酒の入った甕3つを庭先に深く埋めたそう。戦後、首里はかつての面影はなく焼け野原になってしまったが、そんななか、先々代は何日も何日も庭を掘り続け、3つ埋めた甕のうち、2つのかめを奇跡的に見つけることができた。甕が見つかったその瞬間、先々代は「識名家はもう大丈夫だ!」と叫んだとか。命の危険が迫るなか、受け継がれてきた古酒を、次の世代にも残したいという想いがそこにはあった。
ただ、これには裏話もある。当時、どこの酒造も泡盛を地下につくったタンクに保存しており、識名酒造にも地下タンクがあったそうだ。そのため、最初は、先々代も地下タンクに甕を入れようとすると、タンクの蓋が小さすぎて南蛮かめが入らない…。つまり、苦肉の策で庭先に埋めることになったと。
火事場の馬鹿力ならぬ、火事場の馬鹿知恵が、功を奏し、150年古酒が残ったのだ。
泡盛は、ラベルや酵母に個性あり
そんな識名酒造の、主要銘柄は「時雨(しぐれ)」。秋の末から冬の初めにかけて、ぱらぱら通り雨のように降る雨のよう、さわやかな飲み口の泡盛になるようにとの想いを込めて、そう名付けられたとか。
創業当時から造られている時雨は、戦後の沖縄で量り売りが主流だったなか、一番最初に瓶詰めをし、ラベルを貼って売り出された泡盛でもある。かつての甕をモチーフにした古風な絵柄が時代を物語っている。
味わいはというと、華やかな香りはもちろん、甘みがあり飲んだ後の余韻を楽しめる、しっかりした泡盛。これは、アルコール発酵をさせるために使う「酵母」からくる味わい。「5-15酵母」という黒糖から分離開発された「黒糖酵母」と使用することで、より香り豊かな泡盛に仕上がるそう。時雨以外の泡盛では「マンゴー酵母」や「ハイビスカス酵母」などを使用し、時代に合わせた泡盛造りを進めている。
「物語を飲む」ということ
泡盛にかぎらず、そのボトルの記憶に想いを馳せながら、ゆったりとした時間のなかで、その一口を味わうことができる。それは「物語を飲む」ことかもしれなし、「食」の楽しみ方の一つであるように思える。なにを飲むか。だれと飲むか。それだけでない、どうやって飲むか。KNOW:Oでは、その可能性を追っていきたい。
識名酒造
沖縄県那覇市首里赤田町2丁目48
098-884-5451
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