むかしむかし。那覇市にはたくさんの映画館がありました。
「沖映通り」や「国際通り」も映画館から命名された通り名。那覇の歴史や文化に詳しい地元ガイドさんと一緒に、那覇のまちを歩いて巡るまち歩きツアー“那覇まちま~い”の中に、「まぼろしの映画館痕跡めぐり」というツアーが期間限定で開催され、以前、そのツアーに参加。
ちなみに“那覇まちま~い”のコースは常時20~30ほど。様々な面白いコースがあるのだ。時間はどれも2時間ほどで、参加費も1000円~とリーズナブル。以前、参加したのは、かつて那覇中心部にあった“まぼろしの映画館の痕跡”を専門家の解説とともに巡るツアーで、所要時間は2時間。ツアー料金は2,000円。そのツアーのガイドを務めたのが、『沖縄まぼろし映画館』の著者である平良竜次さんだった。
『まぼろし映画館マップ』を元にツアー開始
まずは「まぼろし映画館マップ」なる地図を渡され、そこには今は無き映画館があった場所が記載されていた。このツアーでは、国際通りを中心にいくつかの映画館の痕跡をまわったが、書籍『まぼろし映画館』には、現在わかってるだけの沖縄県内の映画館の痕跡の地図が載ってるらしい。
かつて沖縄には、そこかしこに映画館が建ち、どの小屋も連日大勢の観客で押すな押すなの盛況ぶりだったという。1960年には、その数なんと120館。だが時代の流れとともに映画館が次々と閉館していく。
第二次世界大戦で大きな被害を受けた沖縄にとって、傷ついた人々の心を癒したのが芝居や映画などの芸能文化だったそうだ。戦後、民間人たちは北部の収容所に集められ、苦しい捕虜生活を送る人々にひとときの娯楽を提供したのだ。役者たちによる芝居公演は行く先々で熱烈な歓迎を受け、収容所を巡回して行われたフィルム上映は人々の心を捉えた。
やがて、芝居や映画のための露天劇場がつくられ、さらにテント屋根、瓦葺き、木造の館ができ、沖縄は映画の黄金期に向かって走りだす。宮城嗣吉・高良一・国場幸太郎・宜保俊夫ら、希代の〈映画人〉たちの活躍もあって、1960年のピーク時には館数が120に至ったという。映画館のある周辺は多くが繁華街として賑わい、「国際通り」「沖映通り」などのように、通りの名称も映画館から名づけられた。つまり映画館は、沖縄の復興の『礎(いしずえ)』となったといっても過言でもない。
戦後、那覇周辺は米軍が陣取っていたが、高良一氏が映画館の興行に目をつけ、ここの土地を買い付け、1948年1月21日「アーニーパイル国際劇場」を建設した。国際通りはこの「アーニーパイル国際劇場」の名前から名付けられたそうだ。
そして『アーニーパイル国際劇場』が立っていた場所が、現在の『那覇市ぶんかテンブス館』なのだ。そして『アーニーパイル国際劇場』に隣接してオープンしたのは『平和館』。オーナーは『アーニーパイル国際劇場』と同じ高良一氏。二つの劇場がくっついた映画館だ。これが今で言う“シネコン”のはしりかも。
現在の平和通り商店街の場所には、1955年~1956年ごろに『平和館』という映画館があり、平和通り商店街の名前が付いたのもその名残だ。沖縄で初めてカラーフィルムの映画が上映されたのも『平和館』だという。
現在の国際通り屋台村の場所にあった『グランドオリオン』という映画館
現在『国際通り 屋台村』がある場所に「グランドオリオン」という映画館があった。ここの劇場は2002年に休館。私がまだ旅行者だったころ、廃墟となったグランドオリオンを何度か目にしたことがあるが、将来的にリニューアルして、映画館としての再開を予定しているときいていたが、結果10年以上、廃墟のままで残されていたにも関わらず、構想は立ち消えとなり、国際通り屋台村が建った。
あっちにもこっちにもあった映画館の姿は今は皆無
現在の琉球王国市場(旧三越、旧ハピナハ)も「沖縄東宝劇場(大宝館)」という映画館で、ここは開業してわずか一年足らずで火災になり、他の場所に移っている間に別のオーナーが買い取り、なんだか色々と複雑な歩みを辿った映画館だ。三越が閉店してから現在に至るまでも、複雑な歩みを辿りつつある気がするが。
現在、那覇市で唯一残っているのが『桜坂劇場』。実は桜坂劇場の隣にも以前は『オリオン座(桜坂オリオン)』という劇場があった。1997年に閉館されたが、しばらく建物だけが残り、2007年取り壊されたらしい。
戦後の国際通り界隈は、たくさんの県民が映画館に集い賑わっていたんだろうなぁ。その頃の風景を見てみたかった気もする。