食の人 vol.11
酒処 ちぇい 佐々木章人さん
オフィス街の中にある、ちいさなオアシス。一人でも気軽に行ける店。
「人間って頑張りすぎるとパンクするんですね。そしてパンクすると全てがどーでもよくなりました」
そう話すのは、那覇市泉崎にある「酒処 ちぇい」の店主、佐々木章人さん。
新バスターミナルが完成した泉崎界隈には、多くの飲食店が立ち並んでいる。居酒屋や食堂、ステーキ屋にラーメン屋。「酒処ちぇい」では、焼き鳥をメインに提供している居酒屋だ。以前はご夫婦で営んでいたが、出産を機に奥様は引退。店主一人で切り盛りしている。
「うちの焼き鳥は焼き加減にこだわってるんで、焼いている時は目を離すことができないんです。だから時間のかかる一品料理は作れなくて」
確かにちぇいの焼き鳥の焼き加減は絶妙。その中でもレバーはほっぺが落ちるほど絶品。行けば必ず注文してしまうメニューだ。
スポーツに明け暮れた学生時代。ケガと共に飲食店業界への道へと続く?
「小さな頃から活発で、将来はスキーの選手になりたいと思ってました。茨城ではスキーはできませんが、小さい頃から隣県の栃木や福島でスキーをしていました」
佐々木さんの出身は茨城県。2人兄妹の長男として育つ。小さいころの夢はスポーツ選手かラーメン屋になりたかった。茨城では「水戸藩ラーメン」なるものをよく食べていたそうだ。
ちなみに「水戸藩ラーメン」とは、水戸黄門として知られている徳川光圀公は好奇心旺盛で、当時では珍しかった牛乳や牛肉、豚肉なども進んで食べていたといい、ラーメンもそのひとつ。「大日本史」編纂のために教えを受けていた儒学者・朱舜水という人物からラーメンを教わり、家臣たちにもご馳走したという記録が残っているそうだ。この時、光圀公が食べていたラーメンを再現したのが「水戸藩ラーメン」というわけだ。
「小学校時代は剣道をやっていましたが、小学4年生からは並行してミニバスケもやってました。中学ではバスケ部に所属し、とにかくバスケ三昧で、勉強は一切しなかった。なので進学は無理だと思い、中学校を卒業したら就職するつもりでいました。それくらい勉強できなかったししなかった」
だがバスケをやっていたおかげで、高校には推薦で入れた。しかも特待生として。恐らくそれがなければ高校には行ってなかった。高校時代もとにかくバスケに明け暮れ、なんと大学へも推薦で行けることに。
「でも高校総体の2~3ヶ月前に足首を折っちゃって。大学でもバスケをやりたいのなら、高校総体は欠場するように顧問から勧められたが、痛み止めを打ち無理に高校総体に出場しました。そしたら足首が使い物にならなくなっちゃって」
結局、足首のケガが原因で大学には入るが中退。そこから飲食店人生がスタートすることになる。
ずっとこのままでもいいと思えるくらい、ノンストレスなホームレス生活。
高校3年の頃に初めて飲食店でバイトを始める。飲食店で働く事の楽しさは否定できなかったが、社会人になってからはサラリーマンも経験した。
「自分の思い描く幸せな家庭像はサザエさん一家で。波平さんもマスオさんもサラリーマンでしょ?家には奥さんと子供たちがいて、家族団らんで夕食を囲む。これは飲食店に勤めていたんじゃ、叶えられないと思い、サラリーマンになろうと思ったんです」
だが毎朝同じ時間に起きて同じ電車に乗り、会社に行って仕事をこなすという事にはやはり慣れず、サラリーマンを辞めてしまう。
そしてある居酒屋に就職。茨城県にあるその居酒屋が、銀座にお店をオープンさせることになり、20歳からは銀座で働く事に。結局20歳から28歳までは、銀座・六本木・恵比寿・中目黒あたりでバリバリ働き、歳の割には高額な給料をもらっていたし、何不自由なく暮らしていた。が、そこには落とし穴があった。
「当時、東京で有名なある飲食店にいて、そこには毎月厳しい営業ノルマがあったんですが、順調に毎月クリアしてました。でもノルマをクリアすればもっと多いノルマを押し付けられ、少しでも下がると責められ。ある日、そんな日常に嫌気がさし疲れ果てて、すべて投げ出して逃げたんです」
それからは仕事もやめ、かなり長い間、家に引きこもった。貯金を食いつぶし家賃も払えなくなり、結果ホームレスになってします。
「ホームレス時代は楽しかったです。ノンストレスで。このまま一生ホームレスでもいいなと真剣に思ってました。当時の新宿には溢れるほどのホームレスがいて、夜になるとみんな新宿駅構内で寝ようと集まって来る。冬場は寒くないよう、できるだけ外から遠い場所で寝ようとすると、先住者から追い出されちゃって。社会に馴染めなかったホームレス界にも、階級があるんですよ(笑)でも携帯も家もなく、何にも縛られないホームレス時代は楽でした」
2年弱ホームレス生活を続けるが、このままではいけないと、社会に戻る事を決意した。
東京を出てどこへ行くのか。えんぴつ転がし人生が決まる
まずは社会復帰の第一歩として、住み込みで力仕事に就きお金を貯めた。佐々木さんはその時、東京で働きだして10年間、料理の技術は身についたものの、これといって何の進歩もなかった。まず環境を変えてみようと思ったそうだ。
「このまま東京でやるのか?東京を出るのか?と考え、東京を出る事を決意しました。大阪・仙台・福岡は東京とあまり変わらない気がして、北海道か沖縄に絞ったんです。本当にどちらでもよかった。だからえんぴつを転がし那覇に決まりました(笑)まぁ沖縄は暖かいし、洋服を買うにも少なくてすむでしょ。北海道だと厚着しなきゃいけないしね。沖縄に移住したのは自分が30歳の時です」
そして那覇には一人だけ知り合いがいた。それが現在の奥様だ。
「嫁とは、嫁が東京に憧れ東京に10ヶ月間ほど住んでいた事があって、その時に働いていたのが自分が店長をしていた居酒屋で。嫁も自分も酒好きだし、とにかく店が終わると嫁とスタッフを引き連れて毎晩飲み歩いてましたね」
でもその頃はただの店長とスタッフの間柄。那覇に到着して久しぶりに奥様に連絡し、那覇空港まで迎えに来てもらったそうだ。連絡の方法も今どきだ。
「ホームレスになってから携帯もなくなり、連絡先を知る術がなくて。でもSNSのおかげで、インターネットカフェから嫁に連絡したんです」
沖縄にきて3ヶ月くらいは飲食店で仕事をしながら、ゲストハウスに住んでいた。沖縄に永住するつもりはなかったので、家を借りようとは思わなかった。だがゲストハウスに長くいると、入れ替わり立ち代わりくるゲストに、「初めまして」「なんで沖縄に?」という質問が繰り返され嫌気がさしたそうだ。
その頃、現在の奥様と付き合うようになり、飲食店で働き、同棲を始める。不動産屋で家を探し1年くらいの同棲の後、結婚。
「結婚して三ヶ月でちぇいをオープンしました。付き合いだした当時から、いつか自分たちの店をやりたいと話していて、たまたまいい物件が見つかったんで。それがココです」
「酒処ちぇい」の物件を紹介してくれたのは、以前に働いていた居酒屋のお客さんで、たまたま不動産業者だった。最初は那覇市与儀で始める予定だっただったが、その不動産業者から、与儀よりもいい場所があると今の店舗を紹介された。
「でもその時点で、すでに本土出身の先客がいて。あとハンコを押すだけで契約だったのに、そこのオーナーができれば沖縄の人に貸したいと言ってくれて。うちは嫁がうちなんちゅなんで、自分たちに決まったんです。先客には申し訳なかったけど、すべてはタイミングだと思いました」
そして2016年1月に「酒処ちぇい」をオープンさせる。
ちなみに店名の「ちぇい」は、乾杯するときの「チアーズ」という掛け声を、酔っ払った奥様が「チアーズ」といえず、「ちぇい」と短縮して言ってたのが由来。なので「酒処ちぇい」での乾杯の掛け声は「ちぇい!!」という。
「東京でがむしゃらに頑張った事は、とても役に立っていると思います。ただ頑張りすぎてパンクしたので、その日暮らせているという事に満足しなきゃいけないと思っています。嫁子供もいるし。あの若い頃の時代を考えると、今がどれだけ幸せかを実感し、感謝できる。家族が食べていければいい!毎日感謝です。やっぱり飲食業が性に合ってます」
お客様へも感謝。現在は飲んストレスで、とにかく仕事が楽しいそうだ。遊びの延長に仕事がある感じとも言っていた。それって理想。
「店舗展開は考えていません。僕が楽しければいいというスタンスでやりたいし、苦になる事はしない。そんなちぇいが気に入ってくれるお客が来てくれれば、それだけで幸せなので」
ガッチガチのこだわりを捨て、ニュートラルなスタンスでいられるようになった。お客様から学べることもある。毎日同じであること。店も味も毎日同じで居続けたいと佐々木さんはいう。
「数年前までホームレスだった自分が、現在は首里の一戸建てに住んでいるという不思議。嫁の実家に住んでマスオさん状態ではあるけれど、とても充実しています」
沖縄に住んで困った事はやはり言葉。沖縄住んで6年経ち、昔に比べればだいぶわかるようにはなったが、年配の人たちが話す言葉はわからないそうだ。それはとても同感だ。
「沖縄はイイ人が多い。優しいし。でも意外とオープンなようでオープンではない事もあるけど、基本はイイ人ばかりです。そして移住を考えている人は、沖縄に無駄な理想を抱かない。低所得だし厳しい現実もあります。収入は本土の三分の一。でもビールの値段は本土と同じで物価が高いです。なのでご自身の住む地元の生活の基準を、沖縄に持ち込まなければ、沖縄はとても住みやすいかも。特に那覇は便利だし」
えんぴつ転がし決めた人生が、沖縄でキラキラと輝いている。
酒処 ちぇい
050-1526-0869