食の人 vol.1
Cafe Parasol 棚原ジャンさん
元ホテルマンが、地元沖縄ではじめた、1.6坪のつながるカフェ
「パラソル通りは、何本もの通りが重なる、交差点なんだ。そんな場所だからこそ、交差点みたいなカフェでありたい。一杯のコーヒーで、内と外をつながったらうれしいさね」
そう話すのは、那覇にある「Cafe Parasol」の店主、棚原ジャンさん。
沖縄の観光地として、多くの人が立ち寄るであろう、国際通り。その通りから、細い横道を突き進んでいくと、辿りつくのがCafe Parasolだ。わずか1.6坪という小スペースで、6席が並ぶ。
お客さん同士は、どうしても近くなるので、隣同士でゆんたく(おしゃべり)が自然と生まれる。そこでのコミュニケーションや時間をより豊かなものにしようと、ジャンさんはお客さんとお客さんの間に程よく入ってくれるのだ。
「つかず離れず、その距離感を大切にしてるよ」
そのきめ細やかな気遣いは、人柄はもちろん、元ホテルマンだからこそのもの。沖縄出身だが、一度東京に出て、ホテルなどさまざまな経験を積んだのちに、故郷に戻って、今ではカフェを運営しているジャンさん。
そこには、どんなストーリーがあり、なぜ那覇のパラソル通りでコーヒーを淹れ続けているのだろう。
ベルボーイ、モデル、バーテンダー、会社員を経て、沖縄へUターン
「沖縄市の中の町といってね、嘉手納基地のナンバー2ゲートの近くにあったんだけど、ぼくはそこで生まれて育ったんだ」
今から40年程前のこと、高校を卒業したジャンさんは、今はなき沖縄ヒルトンホテルで社会人としてスタートした。仕事は、ベルボーイだった。ホテルで一番最初に、お客さんを迎えるため、ホテルの印象を大きく決めてしまうほどの役割がある。
「ドアを開け閉めするだけと思われちゃうかもしれないけど、ベルボーイは、ホテルの顔なんだ。緊張するし、大変だったけど、かなり刺激を受けた仕事だった」
2年間を沖縄ヒルトンで務めたのち、東京・赤坂に転勤願い出すことに。狭い島から出て自分の可能性を試してみたい。そんな気持ちから、まだ見ぬ世界を探しに沖縄を出ることを決めたのは、沖縄が日本復帰して間もない1975年、20歳のときだった。
東京では、同じベルボーイとして勤めながらも、働く環境が変わるなかで、さらなる刺激を受けた。またそこには新たな挑戦もあった。
「もともとファッションが好きだったんだ。ホテルで働きながら、モデルの仕事を探していたらスカウトされてね。そこで、モデルのお仕事もさせてもらってたよ。東京コレクションにも出演させてもらったこともあったけど、自分自身を宣伝広告塔にする感覚はそこで身についたかな」
一方プライベートでは、ホテルのお客さんだった今の奥さまと出会うことに。「一目ぼれだったよ(笑)」と猛烈アピールが通じて、結婚まで至った。名古屋に住んでいたのもあり、ジャンさんに奥さまに合わせて、東京を出ることに。25歳のときだった。
その後は、名古屋の繁華街、栄で数年間バーを経営した。三人のお子さんに恵まれ、今度は神奈川へと拠点を移すことに。そこでは、流通会社のマネジメントの仕事に携わり、20年間を勤めあげた。沖縄に戻ってきたのは、お子さんが成人し、手を離れたタイミングだった。
まちの記憶と、コーヒーが重なった瞬間
沖縄に戻ってきたは、好きなことをしようと、那覇に拠点を置くことに。子どもの頃の懐かしい記憶が、那覇の牧志公設市場にたくさん散らばっていた。
「沖縄市コザのほうに住んでたけど、年に一回か、二回くらいは那覇に遊びに来ることがあったんだ。そのときの風景が、このあたりは今も変わらなくてね。昭和の匂いが今も漂っているような」
記憶がよみがえる場所で、新たな記憶が生まれるお店づくりをジャンさんははじめた。最初は、居酒屋をやっていたが、知人に声をかけられ、浮島通りの小さなカフェのお手伝いをすることに。自身がお店に入って、切り盛りすることに。
「そこで、この商店街とコーヒーの相性がいいことに気づいてね」
もともとコーヒーは好きだった。10年程前、神奈川での会社員時代のこと。週末になると、おいしい豆を求めて、バイクを走らせ、日本各地に赴いていたほどだ。そこで手に入れた豆でコーヒーを淹れ、自宅の庭で奥さまと味わっていたそう。
「あれでもないこれでもないなってね。コーヒーが好きだったんだよね。今から考えると、それがコーヒー屋をオープンするための準備だったんだと思っているさ」
今度は、自分ひとりでお店をはじめようと空き物件を、牧志公設市場で探したジャンさん。そのなかで、おばあちゃんが所狭しと布屋さんを並べるパラソル通りで、お客さんとして通っていた皮もの屋の店主がお店を閉めることを聞いた。
「ここの通りは、ごちゃごちゃしているけど面白い。一応店舗の中を見させてもらって、奥に掛かっていたカーテンを開けたらこんな感じで何もない。でも、2・3分でイメージがパッと膨らんできて、カフェならごちゃごちゃ感を生かせるなあと思って。あとは、雨に濡れないことが決めてだったよ」
ついにお店づくりがはじまった。ただ課題はいくつもあった。水上店舗の軒下にある物件をジャンさんは選んだのだが、もともと皮もの屋であり、下にガープ川が流れるこの建物には、水道設備がなかった。
「どうにか、近くの建物から水道を引っ張ってこれるようにお願いして、その課題はクリアできた。お店もセルフビルドでちょこちょこ改装して、オープンまでこぎつけれかな」
オープンしたものの、もともとは布屋が並ぶ通りである。最初は、先輩のおばあちゃんたちに「こんな場所でカフェなんかやって、大丈夫なの」と小さく反対されたこともあったそうだ。
しかし、お店をやり続けるなかで、その様子を実際に目の当たりにしてもらうなかで、信頼関係を気づいていったジャンさん。
「今では、お客さんとして、コーヒーを飲み来てくれるくらいで、心配は吹っ切れたみたいで(笑)。うれしいことだよ、ほんとに」
ぬくもりある、ブランニューな交差点で、一杯のコーヒーを
大ホテルのベルボーイとしてはじまり、今は1.6坪のカフェを経営するジャンさん。そのなかで共通するのは、「ホスピタリティ」の在り方。さりげなくても、どうやってお客さんをおもてなしできるのかに気を遣っている。
「サービス業の醍醐味は、その場にいながらに、世界中の人たちと出会える、つながることができること。それは、ホテルでも、このお店でも変わらない。当時は、沖縄より東京のほうが強く感じられたけど、今の牧志商店街なら、台湾や香港、イタリアやアルゼンチンの人だって遊びに来てくれるから、ずっと楽しいよね」
Cafe Parasolは交差点なのだ。そこには、昔から住んでいるおばあちゃんたちはもちろん、移住してきた人もいて、国内外から訪れる観光客が、ほんの6席あるスペースで交流していく。ちゃんぷるーする(混ざりあっていく)のだ。
「この商店街は、昔から変わらないところもあれば、変わらないといけないことがあるかもれないね。
小さな商店街ならでの、希薄じゃない人間関係、これは変わらないし、変わってほしくなりところ。何かあったらパッと行って、シャッターを開けたり、重いものを持ったり、お互いがいないときは留守番して、昭和の醤油の貸し借りみたいな。顔も見たら、挨拶できる関係性も気持ちいいしね」
ジャンさんは、そう話す。小さなコミュニティを大切にする気持ちからだ。さらに話を続ける。
「変わらないといけないことは、世界中からくる観光客をもてなす心をもっと持っていけるといいのかな。たとえばだけど、自分たちが旅にいったときに、「こんにちは」ってささいな日本語でも挨拶されたらうれしいよね。そんなことを、この商店街に来るお客さんにもしてあげたいんだ」
ジャンさんが子どものときから変わらない風景、そして人間関係が残る、牧志商店街。60年近くの時を経て、世界中からの人を迎える場所となった。その動きに合わせて、まちの人も少しずつ変わり続けていく。
「不変と変化が混同し、いろんな人が行き交っている。古いけど、新しい。”ブランニュー”な交差点だし、それがこの場所の魅力だと思うし、ぼくがこのお店で、止まり木のように休んでいく人にコーヒーを淹れ続ける理由かな。ちょっと立ち止まって、いろんな人と地域がつながるように」
飲食の「飲」の部分、一杯のコーヒーを通じて、人が交差する場をつくるジャンさん。パラソル通りを歩けば、やさしい口調の「こんにちは」と、その笑顔に出会える。その交差点で、人に出会うことが、沖縄の奥深さを知るきっかけになるかもしれない。
Cafe Parasol
那覇市牧志3-3-1ガーブ川商店街内
098-863-7874
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