職の人 vol.2
津嘉山酒造所 秋村 秀和さん
元電子部品の営業マンから、泡盛酒造所の杜氏へ。
「沖縄に来るまで泡盛は一滴も飲んだことはなかったです」
そう話すのは、沖縄県名護市にある「津嘉山酒造所」の杜氏、秋村 英和さん。
現在は工場長と秋村さんのたった二人で、津嘉山酒造の泡盛全てを造っている。休みもないそうだ。
「休みもなく大変だけど、津嘉山酒造の泡盛が好きだと言ってくれるお客様がたくさんいて、わざわざ工場まで泡盛を買いに来てくださったり、たくさんの見学者がお越しになる。そんな方々と直接会って直接励まされることが喜びです。だから頑張れるというか」
平成21年6月30日、津嘉山酒造の建物は国の重要文化財に指定された。津嘉山酒造は沖縄にただ一つ残る戦前の泡盛工場施設なのだ。
津嘉山酒造所は泡盛醸造のための施設と、移住部分を一体とした形式で、麹屋と共に昭和初期の醸造施設の形態をいい状態のままとどめているため、歴史あるこの建物をさらに後世へ残すべく、大規模な修理「平成大改修」が行われ平成30年6月30日に落成式が行われた。
電子部品会社が倒産。そこからまた違った人生が始まる
秋村さんは千葉県船橋市の出身。3人兄弟の長男で、下には弟が二人。小さい頃はガキ大将気質で、いじめっ子がいるとやっつけるタイプ。小学校6年間の間に担任は3回変わったが、どの先生からも「教師生活の中で一番記憶に残る生徒だ」と言われたそうだ。お笑い芸人ばりの喋りのうまさに引き込まれる。
「子供の頃の夢は、海上自衛隊に入る事でした。宇宙戦艦ヤマトの影響で」
そんな秋村さんと泡盛の出会いは何だったのか?
秋村さんは卒業後、東京の秋葉原で電子部品の営業マンとして働いていた。その時の上司(女性)は東恩納さんという沖縄出身の方で、秋村さんの事をとてもかわいがってくれたそうだ。
ある日、沖縄に住む東恩納さんの兄弟家族が東京を訪れる事になり、秋村さんはその兄弟家族の観光のための運転手を頼まれる。
「その時にボクの車に乗ってきたのが、現在の津嘉山酒造の工場長だったんです。工場長の奥さんのお姉さんが、東恩納さんでした」
それから時が過ぎ、上司の東恩納さんは結婚し寿退社。そして秋村さんが35歳の時に電子部品の会社が倒産する。さて今からどうするか。その時も東恩納さんに相談した。
「今まで働き詰めだったから、しばらく沖縄にでも行って気分転換してくれば?」
というアドバイスを受け、那覇市小禄にあるアパートを世話してもらい、ほんの2~3ヶ月のつもりで沖縄に行くことになる。
「その時はフェリーで沖縄に向かいました。向かっている最中に、噂を聞きつけた津嘉山酒造の工場長から電話があり『泡盛のラベル貼りをしてくれるスタッフが産休に入ったので、沖縄に来るならラベル貼りを手伝ってくれないか』と頼まれました。それがきっかけで今に至ります」
津嘉山酒造では泡盛造りからラベル貼り、販売、工場見学の案内人まで、すべて工場長と秋村さんの二人でこなしている。
大正13年創業。赤瓦葺き屋根を有する木造建築としては最大級の規模
津嘉山酒造の建物が国の指定文化財に選ばれたことで、たくさんの観光客が建物を見に来る。
「建物には興味があるが泡盛には興味がないという方もたくさん訪れます。だけどこの建物の歴史と、切っても切り離せない泡盛造りの歴史や工程を説明していくうちに、最初はまったく泡盛に興味を持ってなかった人たちが、泡盛に興味を持ち始める。そして購入してくれる。地道だけれども一人でも多くの方に泡盛を知ってもらいたい」
工場長と二人での泡盛造りだけでも大変だが、その限られた時間を有効に利用し、少しでも多くの方に見学してもらいたいという。
「従業員が僕と工場長だけなので、お酒造りとお客様の応対をどうこなしていくかをいつも考えています。朝は6時くらいから泡盛造りを始め、午前10時くらいには一旦やめて、そこからはラベル貼りなどの簡単な作業をしつつ、17時まではお客様の応対をする。その後に余力が残っていれば、そこから夜にかけて泡盛造りをする。ハードワークだけど辞めたいと思ったことは一度もないです。きついけど楽しいからね」
小さな酒造所だからこその苦悩。だけどそれを苦悩と思わず、喜びに変えている秋村さんを羨ましいと思った。
「おもしろい現象なんですが、掃除をすると見学者や泡盛を購入してくれるお客様が訪れる。ご先祖様が見てくれているのかなぁと感じます。だから掃除は結構こまめにやってます」
秋村さんは一日の泡盛造りの段取りが、夢の中にもでてくるそうだ。
改修前の醸造所は昭和2年から4年にかけて建設され、現存する赤瓦葺き屋根を有する木造建築物としては最大級。太平洋戦争で名護町内の建物のほとんどは破壊されたが、津嘉山酒造所の建物だけは残った。それは津嘉山酒造の施設が戦後米軍のパン工場として使われたためだったという。
昭和50年代に入ると、大手酒造所に押され販売不振となりやむなく休業するも、平成3年には醸造を再開し現在に至る。
今年で沖縄に移住して10年。一番最初に沖縄を訪れたのは、まだ電子部品の営業マンをやっている頃。
「初めて沖縄に来た時、タクシーを半日チャーターして南部の観光名所を回ったんですが、途中で運転手さんがタクシーを止め、おもむろにナイフを持ち出したんです。そして車から降りて人んちの庭から勝手にドラゴンフルーツを切り取り、それをナイフで半分に割って僕にくれたんです。その家は運転手さんの家ではなく、明らかに知らない人の家だったと思う。それを見て沖縄って自由だなぁと思いました」
私も沖縄の銀行で窓口業務をしている友人から面白い話を聞いた事がある。ある日、おばぁとおじぃが二人で新規口座開設にきたので「4桁の暗証番号を決めて下さいね~」とお願いしたら、えらく悩んでいたそうだ。
10分くらい悩んだのち、申込用紙の暗証番号の欄に「どんぐり」と書かれていた。窓口業務の友人がそれを見て、「どんぐりではダメですね~」と伝えると、横にいたおじぃが「じゃあカネヒデはどうね~?」と言われたそう。ちなみにカネヒデは沖縄のスーパーの名前だ。
「お笑い芸人は「ボケ」と「ツッコミ」から成り立ってますが、沖縄の人たちの「ボケ」と「ボケ」の関係性が僕にはとっても面白く、たまには面食らう事もあるけど、お互いが真剣だからこそ余計に面白いなぁと」
このまま何も変えずに、このままを維持する。それがこだわり。
津嘉山酒造の泡盛造りについてのこだわりを聞いてみた。
「こだわりは限られたこの施設と、昔ながらの限られた機械で泡盛造りをやらなければいけないし、昭和50年くらいから変わっていない製造ラインなので、その時のままの造り方をずっとやり続けていることが、『國華』の味になると思っています。このまま何も変えずに、このままを維持して、この環境で泡盛を造っていく事がこだわりですね」
泡盛業界でも新しく変わっていくものと、昔ながらを守っていくものがある。そのどれもが間違っておらず、すべては泡盛の売上に繋げたいという強い思い、愛情なのだ。
「これからの展望は、泡盛造りはこのままで、建物が重要文化財になり波に乗ってる現在を利用して、津嘉山酒造を観光地化し、建物だけに興味を持って訪れた方に、どうやって泡盛にまで興味をもってもらえるか。話をすれば興味がない人も興味をもってくれる。泡盛の売上が年々下がっている今、見学に来たお客様に、津嘉山酒造だけではなく、他メーカーの泡盛にも興味を持ってくれるような話をして、泡盛の売上を少しでも上げるために、津嘉山酒造を活用していけたらなぁと思っています」
泡盛造りにはもちろん愛情を注ぎ、津嘉山酒造だけではなく他メーカーの泡盛へも、建物にもご先祖様にも、泡盛の売上増進にも愛情を注ぐ。やはり愛ってすごい。
千葉から沖縄に移住して10年。沖縄はどても居心地がいいそうだ。これから沖縄移住を考えている人へのアドバイスを聞いてみた。
「沖縄移住を考えるなら、まずは現実を見極める事。毎日青い海を見ながら生活する事を夢見がちだけど、まずは交通の便も良く、仕事もたくさんある「街」を選んだ方がいいと思いますね。仕事にも慣れ貯金もできたら、海の近くに住むのもいいかもしれません。あと仕事を選ばなければ、いくらでも仕事はある。資格を持っていれば強みになると思います」
そこでこんな話をしてくれた。数年前に関東に住んでいた老夫婦が、憧れの沖縄で念願の移住を果たす。海が見渡させる山の上に家を建て、毎日山の麓にある商店に買い物にきていた。最初は沖縄はいいところだ。毎日海を見ながら生活できるなんて夢みたいと喜んでいたが、半年一年と経つうちに、だんだんと愚痴が増え始め、商店では商品数も少なく不便だという事に不満を持ち始める。
「沖縄の人たちはなんでもっと頑張らないのか?もっと頑張って商店をスーパーにしたらいいのに。そうすればみんなももっと助かるのに」
郷に入れば郷に従え。それが出来なかった老夫婦は、しばらくして転居してしまったそうだ。まずは自身が生活しやすい場所を選ぶ方がいいのかもしれない。
「うちの泡盛は少量生産なので、少し値段が高かったりするけど、それでもうちの泡盛が美味しいと飲んでくださるお客様がたくさんいて、とても感謝しているんです。それに応えられるよう、他の酒造所にはない泡盛を造っていきたいと思っています。10年間休みはないけど、皆様の期待に応えていけたらなぁと思います。これからも応援してください」
いたずらな少年のような笑顔で語ってくれた。
津嘉山酒造所
沖縄県名護市大中1丁目14−6
0980-52-2070
津嘉山酒造所のHPはコチラです。