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食の人 vol.8
酔処 玉川(よいしょたまりば)松本正和さん
「以前、ユタにみてもらった時にね、前世は沖縄の人だったと言われたことがあって。だから沖縄が合ってるんだと思う。人は優しいし居心地もいいし。しかもあなたは居酒屋をやるつもりですね!と言い当てられて驚いちゃったよ」
そう話すのは、那覇市牧志にある立ち飲み屋「酔処 玉川」の店主、松本正和さん。
ここ数年、沖縄でも立ち飲み屋やセンベロ文化が広がっている。東京出身の店主の松本さんと、共同経営者の永山則子さんが二人で営む『酔処玉川』では、立ち飲み屋だがセンベロの店ではない。酒の肴が美味しくリーズナブルと評判のお店。最近は『沖縄おでん』もメニューに加わり、このおでんがまたウマい!
則子さんは沖縄生まれの沖縄育ち。明るく気さくですぐに誰とでも仲良くなる。一人で行っても則子さんの心地よいうちなーぐちゆんたく(沖縄方言を交えながらのお喋り)で、すぐに笑顔になれる。アットホームな店とはまさに『酔処玉川』の事だ。
店主の松本さんは、東京都世田谷区出身。小さい頃は、引っ込み思案な性格ながら遊びは大好きで、友達も多く人気者だった。昔からスポーツは万能だったが、勉強はあまり好きではなかった。兄弟は姉が一人。子供の頃の夢は、父親の仕事が大工だったので棟梁になりたかった。しかし高校くらいになると、教員になりたいと考え始める。
「中学時代はバレーボール部に所属し、とにかくバレーボール漬けの毎日で。中学時代から高校ではバレーの強豪校に入り、全国大会に行くことを夢見てたから、とにかく一生懸命練習に励みましたよ。ポジションはエースでアタッカー。カッコいいでしょ(笑)」
一見、強面の松本さんはとても優しく笑顔がキュート。何を聞いても親切丁寧に考えて答えてくれる。
「念願かなって憧れの高校に入り、憧れのバレー部に入部したんだけど、あまりにもそのバレー部のレベルが高すぎて、すぐに辞めちゃったんだよね。それからは自宅のすぐ近くにあった日本蕎麦屋でバイトを始め、そこからはバイトに明け暮れる毎日だったな~」
松本さんは、日本体育大学に進学したかった。松本さんが通っていた高校は、スポーツがとても盛んな高校だったため、バレー部に所属していれば日本体育大学に推薦で行けたかもしれなかったがが、バレーボール部を辞めてしまい、推薦の道は途絶えた。
「高校三年生のころ先生から、推薦をとるためにバスケット部に入らないかと声を掛けてくれたりもしたけど、そこまでして日本体育大学に入るのも嫌だし、断ったんだよね」
そして高校卒業後、バレーの夢と日体大に進学する夢は砕けたが、教員になる夢を叶えるため茨城の大学へ進学。毎日教員になるための授業を真面目に受けていた。が、ある日、事件が起こる。
「大学の前期は大学近くに下宿していたんだけど、色んな事情があって、後期からは自宅から通う事になったんだよね。自宅から大学までは片道2時間半。往復5時間。車で通っていたんだけど、ある日、大事な試験の当日に雪が降り、道が大渋滞で。試験を受ける事ができずに単位を落としちゃって。そこで教員になる夢も途絶えちゃったんだよね」
松本さんは中学校の教員になりたかったので、地元母校の中学ではバレーボールも教えていた。教員になったその日のために準備をしていたのに、人生には色んな落とし穴があるもんだ。
初めて沖縄を訪れたのは20歳の頃。友達同士で海を楽しむために、オクマビーチで泳いだ。
「最初に沖縄に来た時、あちこちの車が錆びていたのが印象的でね。海はとってもキレイで感動したのを覚えているよ。その頃まだインフラが進んでおらず、サトウキビ畑や自然が色濃く残っててさ。特にオクマだし。国際通りは今のようなお土産屋さんは少なく、米軍引き下げ品の店がたくさんあったな~」
大学を卒業し、某有名自動車リース会社へ就職する。営業職だ。しかし就職してもなお、教員になる夢を捨てきれず、働きながら通信大学で教員の勉強を始めた。
「通信大学で勉強を始めたものの、社会人1年生は覚える事も多く、しばらくは頑張ったけどやっぱり両立は難しくてね~。結構高い授業料を払ったけど、結局これも辞めちゃったんだよね」
そこから営業職としてバリバリ働く。仕事はとても楽しかった。社会人になってから沖縄を訪れたのは、2000年の沖縄サミットの時、レンタカー会社を買収するために仕事で訪れた。
33歳で友達の紹介で知り合った奥様と結婚。結婚から3年後に娘が誕生する。娘が幼稚園に入る頃、会社から転勤を命じられた。その場所は沖縄だった。
「今までも大阪や金沢に転勤になるかも~という話はあったけど、どれもなくなり、結局はじめての転勤が沖縄でビックリだよね。娘は東京の幼稚園への入学も決まってたけど、それをキャンセルし沖縄に移住しました。妻も喜んでたよ」
2004年12月に初めての転勤で沖縄へ。場所は豊見城。自身で不動産屋に出向きマンションを借りる。2LDKで9万9000円の家賃だったという。
「とても広くてきれいなマンションだったね~。東京では自分の両親と同居だったから、妻も同居から解放されとても楽しそうだったのを思い出すよ。娘の幼稚園もすぐ決まったし、仕事も順調だし、家族三人で毎日楽しく過ごしてたよね」
しかし沖縄での生活は4年間で終わり、2008年3月1日付けで東京に戻ることになった。東京に戻ってからも家族三人で生活を続けるが、いつの頃からか夫婦のボタンの掛け違いが生じ、2012年に残念ながら離婚。
家族と別居ののち離婚を経験し、そこから沖縄に来る機会が増える。
「離婚をきっかけに何にもやることがなくなって、そんな時、友達の勧めでマラソンを始めたんだよね。7年前(2012年)くらいかな。始めて走ったNAHAマラソンも完走したよ」
松本さんは離婚後も東京でバリバリと働いていた。しかしある日、会社にある制度に気づく。それはライフ支援制度というものだった。
「会社にはライフ支援制度というのがあって、もし早期退職するのなら退職金を上乗せして払うという制度。50歳からその制度が使えるんだよね。そして55歳過ぎると上乗せ金額が徐々に減っていく。52歳で退職するのが一番上乗せ率が高かったので、52歳の時にその制度を使い退職したんだよ。でもそれ以前から、ぼんやりとだけど、仕事を辞めて何かをやろうと思っていたのかもしれない。会社への不満も徐々に出てきてたし、辞めてよかったよ」
30年間務め部長まで昇りつめた会社を、52歳で退職。
共同経営者の女将、永山則子さんと出会ったのは会社を辞める前。同僚の友達だった則子さんとは、友達を交え沖縄に来るたびに呑んでいた。
「女将は元々飲食店をしたいと言っていたので、沖縄に来るたびに色んな立ち飲み屋を飲み歩いてさ。女将は明るく友達も多いし料理も上手。これはやれるなと確信したよね。不安がないと言えば嘘になるけど、沖縄にはいい思いでしかないから、移住をするなら沖縄以外考えられなかったし。人もあったかい住みやすいからね」
そこから松本さんは沖縄に移住し、則子さんと二人で物件探しのため、とにかく歩き回った。たくさんの内見をし、自分たちの希望に合った物件を探しまくった。そこで現在の『酔処玉川』の場所へたどり着く。
「ここは元々、居酒屋だったんだけど、1年以上前から閉まっていてね。那覇セントラルホテルの目の前だし、国際通りからもほど近い。ただ交渉にはかなり手間取ったけど、ここに決めてよかったよ」
そして2018年1月22日に『酔処玉川』をオープン。開店して1年経つが、既に常連客がたくさん訪れる店になっているのは、お二人の努力の賜物ではないだろうか。新しくメニューに加わった『沖縄おでん』は最高に美味しいし、最近ではランチ営業も始め、築地直送の『金目鯛焼き定食』や『アジごま焼き定食』、『おでん定食』や『鶏皮煮込みぶっかけ丼』など、ランチメニューは11種類。そのどれもが絶品なのだ。サッポロビールが飲めるのも嬉しい。
「お店を始めて驚いた事は、立ち飲みなのにお客さんが長時間飲んでいくんだよね。長い人で3~4時間も。東京の立ち飲み屋にはせいぜい居ても1時間くらい。長時間飲んでいく客はいないんだよ。割合的にはうちなんちゅ(沖縄出身者)が6割。残りは自分のような内地(本土)からの移住者だね」
三ヶ月に一度の築地への仕入れの際、必ず東京の立ち飲み屋を巡り研究しているお二人。今でも日々勉強だという。
「将来の展望は、まずは玉川を繁盛させ確立させて、少なくとも3~4年後にはもう一軒店を持ちたいね。実はもう2軒目の構想はあるんだよね。まだ秘密だけど。玉川で東京の立ち飲みを味わってもらい、リーズナブルな美味しい肴と酒を楽しんでもらえたら嬉しいね」
最後に移住を夢見ている人にアドバイス。
「旅行と移住はまったく違うから、まずは沖縄をよく知ること。沖縄の人はいい人が多いから、本土出身の自分たちに気を遣い、合わせてくれていることも多い。郷に入れば郷に従え。沖縄に馴染めるよう努力する気持ちが大事かもね~」
酔処 玉川
沖縄県那覇市牧志2丁目13−14
080-8150-0814