日本史では室町時代にあたる15世紀に最盛期を迎える勝連城主阿麻和利の時代、東南アジアを中心に貿易を行っていた。その前後の歴史にはまだ謎も多いが、勝連城から3世紀から4世紀のローマ帝国の貨幣と、1669年から1679年にかけて製造されたオスマン帝国の貨幣が勝連城から出土したのです。
ヨーロッパとの交易があったのか?それとも東南アジアとの交易の結果、入ってきたものなのか。いずれにしても琉球王国を中継して日本本土に入ってきた技術なども多く、歴史上、重要な立場を担っていたことが良くわかる。
沖縄の9つの世界遺産の1つ「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の中から「勝連城」を巡る
首里城や今帰仁城跡などもそうだが、勝連城跡(かつれんじょうあと)も世界遺産のひとつで、沖縄の城の中でも最も古く、それは12世紀頃と伝えられている。
沖縄本島の中北部、中城湾と金武湾に挟まれた勝連半島の付け根の丘陵に位置し、高低差を活かした城づくりが特徴の城で、堅固な城壁と、防御に徹底して設計された作りから『鉄壁の城塞』としても知られている。10代にわたり、按司(あじ)と呼ばれる地域の首長によって治められてきたが、10代の城主、阿麻和利(あまわり)の治世が最盛期で、地の利を活かした中継貿易で経済力と軍事力を持ち、琉球統一をめざし国王の居城である首里城を攻めたが落城して滅びたそうだ。
勝連城跡は小高い山の上にあり、周囲に高地がないため、南は中城湾、東には海中道路が見え、360度のパノラマが望める。勝連城跡は「曲輪(くるわ)」と呼ばれる区画から出来ていて、「四の曲輪」→「三の曲輪」→「二の曲輪→「一の曲輪」と進むにつれて、だんだんと標高が高くなっていく。
まずは「三の曲輪」に上がるためにこの傾斜がきつく、右から旋回するように長い階段を上らねばなりません。この階段が『鉄壁の城塞・勝連城』第一の関門、敵が攻めてきた時のため、わざと上りにくい階段を用意し、城壁の上からも攻撃できるように設計されているというのだ。
はぁ、はぁ、息を切らせながら階段を上ると、「三の曲輪」そして「二の曲輪」がある。これらの曲輪には、阿麻和利をまつる肝高の御嶽(うたき)の他、城内では様々な場所で御嶽を見ることができる。つまり城塞としてだけでなく、神様を祀る神聖な場所だったということだ。
当時の建築様式のなごりである礎石を見ながら、歴史に思いを馳せる
「二の曲輪」には、当時の建築様式のなごりである礎石を見ることができる。ここには今でいう役所のような役割を持った「殿舎(でんしゃ)」と呼ばれる建物が建っていたと考えられていて、整列している石の上に、柱が立っていたということだ。
さらにだんだん細くなっていく階段を上ると「一の曲輪」。これも一度に攻めてくる数が減るような設計になっているのだ。石の積み方、石の階段、傾斜など、すべてにおいて計算されつくされている。
最後の城主「阿麻和利」は、この景色を見ながら何を思ったのだろうか?
頂上からの眺めは素晴らしく、北は自然豊かなうるま市、南は神の島「久高島」が見渡せる。ここは御獄となっているが、実は抜け穴になっていて、有事の際の避難路だったらしい。
最後の城主「阿麻和利」はこの場所に立ち、何を思ったのだろうか。と、思いを馳せるだけで妄想が止まらない。
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